加藤哲夫さんの思い出

2006年のことだけど、坂本龍一さんらの呼びかけで始まった「ストップロッカショ」という核燃料再処理工場に反対するムーブメントがあった。
当時、私は社会人大学院生で、自分の研究で関東地方に調査に出向いていたことがあった。そんな6月の頃、ちょうど東京でストップロッカショのイベントがあり、せっかくだからとそちらに参加してみた。
2004年に大学院に入ったとき、指導教授の調査旅行に同行して青森県六ヶ所村に行ったことがあり、現地の人から核燃反対運動の話なども伺っていて、この問題についてはずっと気になっていたのだ。

イベントに集まっていた人は若い世代の人たちが多く、たまたま隣の席になった外国人のおじさん(原発反対運動に長らく関わっていたらしい)は「反原発のイベントで、若い人がこんなに集まったのは初めて見た」と言っていた。
イベントのあとで、この問題に関心があって何かアクションしたい人は集まろうというアナウンスがあり、後日行われたそのミーティングにも参加してみた。
ミーティングにはさすがに坂本龍一は来ていなかったけれど、若い人たちが30人くらい集まって、核燃料再処理工場の問題にどう取り組むかをわいわい話し合った。みんなこういう社会運動みたいなことについては素人で、出た意見も、ネットで反対の署名を集めようとかそんなものだった。

若干失望を感じながら、調査で関東に滞在する期間もそのうち終わり、私は宮城に戻った。
当時は大学院生をしつつ、せんだい・みやぎNPOセンターでも非常勤職員として働いていて、やや悶々とした思いを抱えていた私はセンターの代表理事の加藤哲夫さんに相談してみた。

東京でストップロッカショというイベントがあって、そこに集まった若者たちで今後のアクションについて考えたものの、ネットで反対署名を集めようといった話になって、地に足が着いてない感じがするのだけど、どうしたらいいでしょう?

加藤さんに相談したのは、彼もその昔、女川原発反対運動をしていたことがあるのを知っていて、何かヒントになるアドバイスをもらえるのではないかと思ったからだ。

「ネットで楽しようと思うな。ゲリラ戦をしなさい」

加藤さんはそう言って、自分が反対運動をしたときのエピソードを語ってくれた。チェルノブイリ原発事故の後に日本でも原発のリスクについての認識が高まり、加藤さんはプロジェクトチームをつくって、原発の危険性についての著作で有名だった広瀬隆の講演会を企画し、イズミティ21のホールを満席にしたのだ(このエピソードについては、加藤さんの本『市民の日本語』でも触れられている)。

先の言葉について私なりの解釈をすると、ふわっとしたネット世論に呼びかけるのではなく、自分で動いて世に問題提起しなさい、相手は国策・原子力産業という巨大なものだけれども、知恵とやり方次第じゃ立ち向かえるし、たとえ相手を変えられないとしても、その姿勢こそが大事なんだということだったと思う。

加藤さんからのアドバイスを受けて、自分は何ができるか考えてみた。

そこで、私は河野太郎衆議院議員を仙台に呼んで、核燃料サイクル政策がいかに破綻しているかを話してもらう講演会をやることにした。
原子力にかかわる議論は、特に福島原発事故が起きる前はイデオロギー的に見られがちだった。だからこそ自民党の論客に政策面から話してもらえるといいと思ったのだ。

そのとき運がよかったのは、大学の先輩経由で河野太郎議員とわりとすんなり連絡が取れたことと、当時彼は自民党の総裁選に立候補しようとしていて、全国各地でアピール活動をしたい思惑があり、アピール活動を手伝うこととバーターで講演会を依頼できたことだ。

河野事務所と日程を調整し、奇しくも私の誕生日である8月11日に講演会を行うことになった。私はまわりの大学院生やストップロッカショで知り合った仲間と実行委員会をつくり、イベントの企画・広報を行った。

8月11日、私たちは仙台駅で河野議員と落ち合った。河野議員はメディア露出も多く、こちらはこれまで国会議員なんて会ったこともなかったので、どんな感じの人かとどきどきしていたが、会って話してみるとわりと気さくな感じだったので安心した。
さっそく仙台駅前で総裁選出馬に向けての街宣とビラ配りをし、そのときに核燃料再処理工場講演会のチラシも一緒に配った。そのときに配ったチラシを見て、そのまま講演会に参加してくれた人もいた。

講演会の会場は、駅近くのエルソーラ仙台の大研修室で、72名定員の会場に50人以上を集めたから集客はまずまずだっただろう。加藤さんがホールを満席にしたのにはぜんぜん及ばないが。当時は仙台の反原発団体関係者ともあまり接点がなかったので、一介の大学院生がよくこれだけ集めたと思う。

河野議員は話し慣れていて、適度に聴衆の受けも取りつつ、核燃料サイクルの問題点をわかりやすく説明してくれた。メディアの取材も入り、講演会の様子は後日小さいながらも新聞の記事になった。
何より嬉しかったのは、常に多忙だった加藤哲夫さんがこの講演会に参加してくて、前の方の席で聴いてくれたことだった。

私は2004年からせんだい・みやぎNPOセンターで非常勤職員として働いていたが、自ら何かイベントを企画して実行したのはこのときが初めてだった。だから、自分にとっての市民活動デビュー戦が、河野太郎講演会だったことになる。

一番最初の活動の、このときの成功体験があったからこそ、今まで市民活動を続けてこられたように思う。
やろうと思って一歩踏み出してみれば、わりとできたりするのだ。
地星社の8年間は、まさにゲリラ戦の日々と言えるだろう。もちろん失敗も数多いのだが、それでもなおこれまでやってこれたのは加藤さんの言葉もあったからだ。

そんなことを、加藤さんが亡くなって10年の命日に思った。

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