今から13年前、2004年3月のこと。大学院の指導教授とともに、青森県の下北半島をまわって地域のさまざまな方(行政職員、新聞記者、反対運動をしている方、まちづくり団体の方、再生可能エネルギーを推進しているNPO等)にお会いし、原子力施設のことなどについてお話を伺ったことがあります。
まわった地域は、青森市、六ヶ所村、むつ市、東通村、大間町。当時、私は社会人学生として大学院に入る直前でした。入学式より前に、先生から「フダくん、調査旅行をするから君も来なさい」と言われて、他の院生とともに青森に行くことになったのでした(入試前に先生の著書も読んでいたので、多少は原発の問題についても知っていたけれど、調査旅行に行く前は原発への関心はあまりありませんでした)。
どこの地域の誰の話もそれぞれとても興味深く、新聞報道などで受けるイメージとはまったく違った「現実」がそこにあるのだということを強く感じました。全部紹介したいくらいだけど、今回は六ヶ所村の話をちょっとだけします。
六ヶ所村には核燃料再処理工場というものがあります。1993年に建設が始まって、さまざまなトラブルが続き、延期に次ぐ延期で、2017年現在まだ本格稼働が始まってない原子力関連施設です。
この工場では、原発から出てくる使用済み核燃料を化学処理して、ウランとプルトニウムを取り出します。燃料としてまた使うということに一応なっています。プルトニウムは核兵器の原料になるので、その保有は国際的にとても厳しく制限されています。そんな物質を扱うくらいなので、極めて危険性の高い施設です。
六ヶ所村に行って地元の人に話を聞く前、私は村の政治状況をこんなふうに想像していました。村議会は、過半数を占める再処理工場賛成派と、比較少数の反対派議員との争いなのかなと。
現地で何人かの方に話を聞いたら、その想像はまったく間違っていることがわかりました。反対派は少数なのではなくて、そもそも議席がないのです。選挙に立候補しても、反対派はほとんど得票できず、当選ラインに遠く及ばないとのこと。村議会は、推進派の中で村長派と反村長派の派閥に分かれ、議員はほぼ土建屋で、再処理工場建設にかかわる公共事業をどちらの勢力が受注するかで争っているとのことでした。
そのような状況だから、村民が再処理工場にほとんど賛成なのかというと、それもまた違います。かつては、六ヶ所村でも漁業者を中心に大規模な反対運動がありました。しかし、それは金の力でどんどん切り崩されていったそうです。つい昨日まで反対派のリーダーだった方が、急に賛成にまわるということもあったとのこと。家族や親戚、隣近所といった近い関係の中で賛成と反対に分かれ、仲違いすることもたくさん起きたといいます。
切り崩しによって反対運動は勢力を弱め、住民同士の仲違いで村民は疲弊し、再処理工場の建設の進展により既成事実がつくられ、私が訪れたときは表立って反対を唱える人は村では極めて少数になっていました。本当は再処理工場に反対であったり、不安に思っているけれど、それを言うことのできない人は少なからず存在していました。しかし、誰がどこで何を言ったか、何をしたかがすぐに伝わる村においては、再処理工場のことを話すこと自体がタブーとされ、日常の会話で出てくることはほぼないとのことでした。選挙も、地域の関係が密で、誰が誰に投票したか(あるいはしなかったか)の票読みがかなり正確にできるので、本音では反対でも反対派に投票することはできないという話でした。
さて、2017年、現在のことに話を移します。
国会では共謀罪法案が可決されました。そんなニュースを聞いて思い出したのが六ヶ所村のことでした。共謀罪が成立したら、日本全体が六ヶ所村のようになるだろうなと。
共謀罪が施行されたら、国家による監視が強まるのではないか、そういう懸念もされています。しかし、それより私が恐ろしいと思うのはこういうことです。例えば、Aさんが「原発は反対だ」と言ったとします。そうすると、こう言う人が現れるかもしれません。「Aさん、共謀罪があるから、そういうことはあまり大っぴらに言わない方がいいですよ」と。
あるいは、Aさんには直接そういうことを言わず、Aさんの周囲の人に「Aは反原発だから、共謀罪もあるし、あんまり関わらない方がいいよ」と忠告するかもしれません。言われた人は、Aさんとの付き合いを避けるようになるかもしれません。
国家権力が、本当にAさんを監視するかどうかはわかりません。実は全然監視してないかもしれない。でも、反対運動を押さえ込みたい側にとっては、相手に「監視されているかもしれない」と思わせることができればそれでいいわけです。あとは勝手に、市民同士が相互不信となり、分断され、権力にとって望ましくない意見を言わせない空気ができればそれでいい。
自主規制。忖度。空気を読む。
六ヶ所村で起きていたのはそういうことです。「核燃」の話をすると、話したことがどこかに筒抜けで、人間関係や仕事の関係で自分が不利益を被るかもしれないし、誰かに不利益を与えてしまうかもしれない。住民同士、自分のために、相手のために、過度に慮ることで、政治権力にかかわるテーマの話はできなくなる。
これは、NPOや市民活動の持つ価値とは対極になります。ある目的のために人々が集い、組織をつくり、信頼し、協力しあって活動し、社会を変えていく。社会に力を生み出すこうした価値が、共謀罪のもたらす「空気」によって蝕まれていきます。
そのことのさらなる恐ろしさは、これをいつの間にか所与のものとして受け入れてしまうことです。そういうことは言ってはならないものなのだという自主規制が当たり前になり、いずれそのことに何の問題も感じなくなるでしょう。そしてそれはすでに起きているのです。
私自身、いつまでそうした「空気」に抗えるかわかりません。もしかしたら、いつしかそれに慣れてしまって何の問題も感じなくなるときが来るかもしれない。だから、今のこの考えをここに書き留めておきます。