支援の現場におけるソフトなパターナリズム

差別をしている人たちには差別をしているという意識がない。むしろ女性や障害者を保護すべき対象と見ている。俺が稼いでくるから、お前はきちんと家庭を守れみたいに。ただ保護の対象が自己主張をした瞬間に態度が変わる。「なまいき」だと。その瞬間から差別が始まる。

なぜ女性が石原慎太郎を支持? – Munchener Brucke

 これは、2007年の東京都知事選について論評していたとあるブログからの引用です。当時、石原慎太郎都知事の対抗馬だった浅野史郎氏の言葉とのこと。10年以上前に読んだブログ記事ですが、なるほどーと思ってブックマークしていて、今でも何やらあったときに読み返してみたりしています。

 上記のような態度・考え方・意識は、パターナリズムということができるでしょう。ウィキペディアでは、パターナリズムとは「強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援すること」と説明されています。さすがに今は「俺が稼いでくるから、お前はきちんと家庭を守れ」みたいな言い方をする人は少ないでしょうが、支援の現場では、ソフトなパターナリズムはむしろ蔓延しているように思います。例えば、私たちが支援します、すべてお任せください、みたいな。

 貧困家庭、虐待を受けている子ども、重度の障害者、独居の高齢者など支援を受ける側と、支援をする側との間には、実際のところ力の格差が存在しますし、だからこそ「支援」というものにはパターナリズム的な要素がどうしてもつきまといます。とはいえ、支援を必要とする人をかわいそうな存在、弱い存在とだけみなすのは、一面的な見方のように思うのです。どのような人でも人としての尊厳を持ち、同様に尊重されるべきですし、社会的な有用さだけで人の価値が決まるわけではありません。

 「助けたい」という気持ちが上から目線に陥りがちなのは、マジョリティ側からの視点でしか相手を見ていないからだと思います。だから、支援を受けている側が支援をする側に異議申し立てをすると、「助けてあげているのに、なんだ!」「わかっていない」となる。社会的に弱い立場に立たされている人が支援を受けたとき、支援者に対し、感謝することはあっても、批判することはなかなかありません。力の格差が存在する以上、何か問題が生じていたとしても、支援を受ける側からは異議を唱えにくいということがあります。

 しかし、ソフトなパターナリズムの本質的な問題はもうちょっと別のところにあると考えています。それは、パターナリズムだとしても、支援を受ける側は基本的にありがたがって支援を受けてしまうことです。

 支援を受ける側からありがたいと思われるのであれば、それはいいことのように見えます。一方で、目に見えずに損なわれているのは、当事者が自分自身の生き方、あり方について自己決定をする機会やその力です。最初に紹介した2007年の東京都知事選についてのブログ記事でも、女性が石原氏を支持しているのは、自己主張をするよりも、弱い存在として守ってもらえる方がよいからではないかという見立てがされていました。この場合、やや強い言い方をするならば、支配-被支配の構造、あるいは従属関係は残されたままです。だから、保護の対象(と思われている属性の人)が自己主張をすると、差別が始まるし、ハラスメントが起きる。

 (乳幼児や認知症の高齢者、重度の知的障害者など、そもそも自己決定が難しい人もいるのではないかという意見もあると思いますが、そういうケースの説明をし始めるとさらに長くなるので、ここでは省きます)

 でも、自己主張の声はなかなか外には聞こえないし、むしろ支援に対する感謝の声の方が聞こえやすいものです。こうした活動にドナー(寄付者)が付いている場合、受益者が喜んでいるのだからもっと応援しよう(寄付しよう)となりえますし、そうすると社会的な従属関係はますます強まってしまうかもしれません。福祉の分野でも、国際協力の分野でも、これは古くて新しい問題のように思います。

 では、支援がソフトなパターナリズムに陥らないようにするにはどうするか。私が今のところ考えているのは以下の4点です。

①パターナリズムへの二段階の自覚
②自己決定のサポートとしてのエンパワーメント
③当事者性を持った支援者
④他者の合理性への理解

 これも、それぞれ説明し始めるとまた長くなりそうなので、気が向いたときに改めて書きます。

*こちらの論考を受けて書きました。→仁藤 夢乃 – 「助けたい」という気持ちが上から目線になることについて考えている。…