「みんなのわがまま」は公共性を帯びる

「私のわがまま」はただのわがままというか普通のわがままだけど、それが「みんなのわがまま」になると公共性を帯びるのではないか。そんなことを思った。

社会学者で社会運動論を専門としている富永京子氏が『みんなの「わがまま」入門』という本を出していて、同書の「はじめに」に次のように書いている。

この本は、「わがまま」というツールを使いながら、言いづらいことを言いやすくするための本、そしてそこから、社会や政治といった「遠い」ことがらを身近な視点から見ようとする本です。

富永京子『みんなの「わがまま」入門』

この本は、中高一貫校での著者の講演内容を元に書かれたとのこと。「わがまま」をキーワードに社会運動論の知見も用いながら、社会へかかわる方法や考え方について平易な言葉で書かれている。

タイトルにある「みんなの」は、「「わがまま」入門」にもかかっているし、「わがまま」にもかかっているのではないか。前者は、「わがままをツールに社会へのかかわりをつくる方法をみんなで学びましょう」のような、多くの人への呼びかけのニュアンス。後者は、「個人のわがままを、みんなのわがままにすることで、社会的な(公共的な)ものになる」というニュアンス。

せんだい・みやぎNPOセンターの代表理事だった加藤哲夫さんが市民活動の講演で、「私を開くと公共になる」とよく言っていたのを思い出した。

公共は、必ずしもはじめからみんなのものなのではない。特に、それまでの世の中に存在しなかったような公共は、私的なこと、まわりから「わがまま」だと見なされるようなことから始まり、それが「みんなのわがまま」になることで公共のものへとなっていくのではないか。