デモのある風景

前世紀の終わり頃、ハンブルクの隣の小さな町に1年ばかり滞在していた。週末は退屈だったので、バスと電車を乗り継いでよくハンブルクの中心部まで出かけていた。週末のハンブルクでは、常に誰かが何かのデモ行進をしている光景を見かけたものである。そんな感じで、ドイツ滞在中はデモは日常の風景のひとつだった。

 政治的なデモに参加する人には「近づきたくない」と考える傾向が、日本と中国では突出して強いことが、アジアと欧米の九つの国・地域の調査からわかった。デモは、投票だけでは表現できない不満や怒りを示す行為で、あまりに敬遠されると人々の声が政治に届きにくくなる、と専門家は懸念している。

政治デモ参加者に「近づきたくない」 日本と中国で突出:朝日新聞デジタル

「政治的なデモ」というとき、この9ヶ国の人たちはそれぞれどんなテーマを思い浮かべるのだろう。

何年か前に「保育園落ちた日本死ね」という匿名ブログ記事が話題になったことがあったが、保育園を増やせとか保育士の待遇をよくしろみたいなことは、ドイツ人だったらデモを起こすんじゃないかと当時思った。

「待機児童問題」という言い方をすればようやく政治問題っぽくなるけど、「子どもを預けられる保育園が見つからない」ことは多くの保護者にとっては私的な問題であって政治の問題とは必しも結びついてないのが日本の状況なのかもしれない。

ドイツで電車に乗っていたとき、乗客の一人がまわりの人に「暑いからちょっと窓を開けませんか」と言って窓を開けた場面に遭遇したことがある。日本だと、みんな蒸し暑いと思っていても、全然知らない人同士の場所で自分からまわりにそういう声がけをして窓を開ける人はほとんどいないように思う。

デモというのは、社会に対する不満を可視化する行為だ。見知らぬ他者に「あなたはどう思いますか?」と問う行為と言えるかもしれない。やや話が飛躍するかもしれないけれど、社会の中に、見知らぬ他者への信頼感のあることが、デモという行為を成り立たせるための一つの条件ではないかと思っている。