その昔、私は外国人だった

こういうことを言うとちょっと驚かれたりもするのだけど、その昔、私は外国人だった。外国人だった頃は、社会におけるマイノリティだったし、何かと不自由な思いもした。

とは言っても、在日◯◯人から日本人に帰化したとか、そういうことではない。もともと日本人だが、一年ばかり海外で生活していて、その間はその地において外国人だったのだ。そんなことを改めて思い返したのは、次のような記事を読んだから。

Eさん:マジョリティー街道を歩んだ人たちを変えるのは、相当難しいと感じています。家庭環境などに比較的恵まれた状態で成功体験を積んだ上で、社会的な地位と収入面を求めてテレビ局に入社した男性が相当いる。マイノリティーになった経験が一度もない人の意識を変えるのは本当に難しいです。

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在京テレビ局で働く女性5人の匿名座談会の記事で、テレビ局の男性社員を上記のように評しているのを読んで、なるほどそこかと今さらながら思ってしまった。「マイノリティになった経験が一度もない」そういう人が世の中の支配層なのだ。

ところで、私が外国人だったときの話に戻ると、滞在していたのはドイツで、ある国際交流のプログラムに参加して、ホームステイをしながらボランティア活動をするというものだった。言葉や習慣などで不自由することはあったものの、何かと親切にしてもらったというのが実際のところで、外国人であるがゆえに差別的な扱いを受けたことは少なかった(通りすがりに「外国人は出て行け」とつぶやかれたことが2、3度あった程度)。

ホームステイ先やボランティア先は、こちらが外国人だとわかった上で受け入れてくれているので、親切なのはある程度想定はされたが、私が驚いたのは旅行先で道がわからないでいたら、こちらの困っていそうな様子を見て道を教えてくれたり、案内してくれた人がけっこういたことだ。

こうした経験を経て、「日本にいたとき、外国人にはもっと親切にしてあげればよかった。これから日本で外国人の人と接することがあれば親切にしてあげよう」と思うようになった。

ドイツに行く前の学生時代、住んでいた学生寮には外国人留学生もたくさんいて、接する機会もそれなりにあった。それでも、外国人として暮らすことの大変さをわかってあげていたかというとそうでもなかったと思う。こういうことは自分が同じ立場にならないとなかなかわからないことを身をもって感じた。

マジョリティの人でももちろんマイノリティに対し親切な人はいる。しかしそれはややもすると「施し」的、あるいは「してあげている」的な親切になるおそれがある。マジョリティ側が本当の意味でマイノリティを理解していないからだ。だから本質からずれてしまう。政府が掲げる「女性活躍」なんかもそうしたものの一つだろう。

女性活躍もよいが、上級国民のような人たちに擬似的にでもマイノリティ体験をさせる政策が実は必要なのではなかろうか。